昨日は何処へ行くのか

風呂場からの思索

空っぽ

28.juillet.2017

ワインにのまれると、毎度おもうのだが、のまれながら他者と話す時、使用する単語は哲学風なことを連発するのだが、少し自問すると、中身がすっからかんなことに気づかずにはいられない。知性と教養のなさにいつまでも苦しめられる。しかしながら、苦しみを逃れるために学ぶわけではない。知性と教養を得る快楽のために学ぶのだ。明日も、書物に囲まれた空間にこもろう。

 

 

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未知なる本を読む楽しみ

26.juillet.2017

本を読むといえば、小説、それも翻訳された小説しか読んでこなかったが、学問を学ぶ場に足を踏み入れたことにより様々な分野の本を手にとるようになった。おもにそれはレポートを書く為のものであり、さらっと読み流してしまうものであるが、中にはずぶずぶと深みにはまりたくなる分野の本に出会うことがある。そんな本に出会った時、頭をかかえる。

なぜなら、深みにはまるということは、それらの本を丁寧に次から次へと読みこんでいかなければならず、そうするとレポートによる時間的拘束から容易には逃れることができてしまう。つまり、試験が受けられないということ。

だから、レポートをひとまず書いて後々ゆっくりとそれらの本を読もうと思う。

しかし、そのことにも違和を感じる。そもそも時間的拘束は、そうしなければと自らの意思により生み出した部分が大いにある。それならそれを変えてしまえば、もう少しゆっくりと未知なる本を楽しみ、書き記すことができるのに。そしてそれが本来のあるべきスタイルなのでは。

なぜ、その様にしないのだろうか。

 

哲学書とふれあうために

20.juillet.2017

難解な哲学書を理解するにはどうしたらいいか。気づいたら口がその質問をしていた。すぐれた専門家と話す機会もそうないので、思わずでてしまったのだろう。

その質問への答えは明確だった。

哲学書を読む為には、哲学書の読み方がインストールされているかどうかである。哲学書は頭が良いから読めるのではなく、哲学書の読み方が習慣化されていれば読めるのだ。

では、その読み方はどうインストールすべきなのか。

それは、ゼミあるいは読書会によって精読する方法を身につけることである。独学で精読しようとしても、なかなか出来るものではない。その方法を身につけている人間から学ぶこと。

 

ゼミあるいは読書会を探すところから始めないと。

 

 

入門

19.juillet.2017

何かを学ぶ為のきっかけとして、入門という言葉が使われるが、門をくぐってそこから先へ進むことはどれだけあるだろうか。

バタイユ入門講座が最終日だった。何かを理解し得たような、全くなにもしてないような、入門とはそんな感じだ。ここから先へ進むことができるのだろうか、それともここで生き絶えるのか。

門と書くと、カフカの掟の門前が頭の中を駆け巡る。

 

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記録.

16.juillet.2017

 

だだっ広いその空間には無数の書物がならんでいる。その中で、足を運ぶ棚が幾つかあるが、最近は思想や哲学に長い時間を費やす。そこにある書物は、大きく手を広げて出迎えてくれるのだが、ページをめくると容易には読み解くことのできない文章が羅列している。しかしそれでも、心は大いに刺激される。

最近、遠のいていた棚にも足を運んだ。文学、なかでも小説との距離が開くばかりである。眠れぬ夜に、ボルヘスの伝奇集を手にとるくらいだ。結局、その場でも小説に触れることはなかった。

 

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記録

15.juillet.2017

唐突に文章によって何かを残すことを再開してみる。あくまで断片的に、非永続的に。

背伸びをしてというか、超えられもしない跳び箱に向かっていったというか、とにかく無謀なことを試みた。東門をエレベーターで8階まであがると、狭くもなく広くもない空間で「デリダと宗教的なもの」について議論を交わす人々の前に、座った。

そこで、語られていた他者の言葉のほとんどを浅学ゆえに理解することはできなかった。ただし、幾つかのキーワードを捉え、考えるべきことがらを受けとった。

 

 

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the next president of the United States of America

I've felt that it is hard to accept the reality.

He lacks the sense of democracy .

Where is freedom?

Where is equality?